物象化の問題は、非常に複雑、多様であり、また、認識論として論じても重層的であり、一言では言い表せられないものを多く含んでいる。故に、定義することは、難しい。そこで、アドルノが 「不協和音」で論じている一般的な青年音楽サークルなどの活動を例にして、論じようと思う 。私自身も、アマチュアの学生オーケストラ、アマチュア合唱団の活動の経験がある。 多少、自己の経験も踏まえつつ論じることができると思う。
アドルノは、一般的な青年音楽サークルの活動について、以下のように述べる。
「青年運動の短絡的思考とは、音楽がその人間的な目標を自らの内に求めず、 その教育上の疑似宗教上の、集団上の応用性に持つと考える点にある 。ヴィルヘルム・エーマンは、「美を超越した諸力」に対してわたしがとる関係に疑いを投げている。しかし、芸術の内に芸術を超えたものが実現するのは、まさにこの力、 つまり芸術に内在する要請が成就することによるのであって、芸術が白旗を掲げ、 外的な目的あるいは外的なカテゴリーに屈従することによるのではない。」<アドルノ、「不協和音」p123>
「数人の人間がある事柄のために集えば、疎外は追放され、 共同体が現出するというこの信仰はまやかしである。 今日でも、真の人間関係と人間的な親密さの可能性が生きながらえていることは確かであるが、その可能性自体により、またこの可能性を計画的に保存することによっては、社会に根を下ろした 不幸の基盤を変革することはほとんど不可能である。むしろ、その逆に、計画的にこしらえられた第一次集団などというものは、それ自体の概念を傷つけている。それらは、実は管理体制の一部分となるのである。」
<同、p118>
ここで芸術の定義を問う。
芸術とは、美へと向かう意志。
ヘーゲルは、美学において、以下のように述べている。
「芸術の究極目的を定立しようとするならば、これは真理を啓示し表現し、人間の胸裡の動きを表すこと。しかもこれを形象的具体的に表現することである。芸術はかような究極目的を歴史や宗教やその他のものと共有する。」<ヘーゲル「美学」、p107、竹内敏雄訳>
そして、「芸術に対する反省的考察は前述の宥和された対立の立場に帰著すべきものであるが、この立場からすると、われわれは芸術の概念をその内的必然性にしたがつて把握しなければならぬということになる。」<同、p 112>
マロの名称で呼ばれているNHK交響楽団のコンサートマスター、篠崎史紀氏はYouTubeで以下のように述べている。「クラシックとは、伝統に裏付けられた格式、という意味が含まれている。楽式(様式)という意味でも、クラシックは、要するに、歴史を重ねることにより、格式が出来上がってる。故に、クラシック音楽は、伝承と再生が、主要な目的の内の一つである。とかく演奏技術ばかりに意識が向かいがちではあるが、それ以外にも必要なものがある。格式、つまり歴史的な存在であるが故に、その曲の歴史的な意味を伝記資料や歴史資料などを通じて理解することは必須要件である。
音大生でよくみられる現象として、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンなどの古典を学んだ経験もなく、いきなりショスタコビッチ、プロコフィエフなどのテクニック的に、割と派手で、コンクールや授業でも点数が取りやすい曲ばかりに取り組んでいるケースが、とても多くみられる。」<youtubeチャンネル:オケ創 クラシック音楽大好き「音大生、音大行きたい人へ、マロさんから大切なメッセージ」より>
アドルノは、以下のように述べている。
「芸術にとって、自分自身の運動の論理のなかで形成されていくもの以外の規範はもはや存在しない。かかる規範を尊重し、つくりだすとともに、ふたたび変更しもするような意識こそが、この規範を満たすことができるのである。」〈アドルノ「模範像なしに」、p15、みすず書房刊、竹峰義和訳〉
ここで言われている「自分自身の運動の論理のなかで形成されていくもの」である規範とは、まさに先で言われているところの格式であり、クラシックの原義である。
それゆえに、芸術作品の創作を志す作家は、正に、この格式の獲得のための修練に、誠実に、日々、取り組まなければならない。
この「誠実に」という意味は、ヘーゲルが美学で述べた「美そのもの」を目的論に据える意識のことであり、物象化した意識に於いては、到底、不可能な実践なのだ。
以上のように、アドルノが述べるように、音楽サークルにおける建て前は、大方、先ほど述べた通りであり、芸術本来の目的論からは、隔絶した存在である。
ここで、声楽家の車田和寿氏の合唱団に関する意見を、ここで紹介したいと思う。これも、物象化現象の一例だと思う。〈YouTubeチャンネル:車田和寿ー音楽に寄せて、【音楽談話44】加熱するコンクールで不自然なすがたに?〉
車田氏によると、結局、学生合唱団においては、非常に不自然な形での指導が行われている。その代表的なものは「無理に合わせる」ということである。「合わせる」とは、まさに歌の声色を無理に、不自然な形で合わせるということである。しかし、車田氏における真の表現とは合わせることではなく、それぞれの個人が、個性を発揮して、表現へと向かう意志で、それぞれが個性を発揮する。そこには、それぞれの個人の合唱技術の到達度合い、年齢的な声質の問題などの違いはあるが、それこそ自然な形での合奏である。
この車田氏の話しを聞いて、思い出したのが、フルトヴェングラーである。フルトヴェングラーは決して学団員に細かいところまで合わせろ、というようなことを言わない、それは、クナッパーズブッシュにも言えることである。それぞれの楽団員がそれぞれの力を精いっぱい使い、表現へと向かう。故に、不自然に合わせるということは、ある種の表現の抑圧 というふうに言えなくもない。それによって、音楽は力を失う。結局、音楽の演奏における目的論が、表面的になんとなくきれいに合わせるというような、転倒した形へと変わってしまう。音楽の本質というもの、表現の本質というものを、あるいは、更に言うと、芸術における美 というものの本質を全くとらえておらず、あるいはとらえる力がないのか 、それは認識レベルの問題であるのか。まさにこれは、物象化の表れであろう。
ここで再び、アドルノの言葉を引用する。
「わたしが音楽の内在的運動法則に、芸術作品の自立性に信頼をおくことによって、人間関係の疎外と物象化には諦めよく折り合っているなどと非難している。しかし、芸術が機構に対抗するよすがとしてもつその自立性こそは化石化した諸関係をすでにごく深い意味で否定しているのである。従って、美の領域と現実の領域との境界を拭い消そうとするものは、 美の領域を実践や現代の物象化の傾向の域にまで低めるものである。」<アドルノ「不協和音」、p121。>
まさにその目的の取り違いというものが、 アドルノが論じている青年音楽サークルにおけるものと、相同であると思う。
私の経験であるが、私は学生時代はオーケストラオーケストラサークルにおいて、チェロを担当し、 あるいは、社会人になってから、バッハの宗教曲を専門とする合唱団にも所属したことがある。それらの自己の経験から、まさにアドルノが 論じている青年音楽サークルの問題をを踏まえて、多少結論めいたことを言うと、例えば、 まさにオーケストラにおいては、往年の大指揮者であるフルトヴェングラーやクナッパーズブッシュの考え方に賛同する。やはり、オーケストラ奏者である個々人が、芸術への崇高な意志を持って、それに向かうこと。芸術の目的論の実現のために、技量というものを鍛錬すること。そして、オーケストラのパートを構成するいち奏者として、鍛錬の成果をもって、自律的に、オーケストラ の演奏活動に参加すること。そのような前提なくして、 表現などはありえない。
コミュニティ形成から考察すると、アソシエーション(association)という概念が、この場合、重要である。オーケストラ、合唱においては、アソシエーションである事が重要である。芸術コミュニティにおいては、 これまで説明してきた優れた要素を含むコミュニティの形式を一般化して言うと、アソシエーションである。
アソシエーション、つまり、1人1人が自立した存在として、自らの芸術進歩における修練の成果を前提として、この修練により獲得された高い技能による演奏が行われる。往年の偉大な指揮者、フルトヴェングラーや クナッパーズブッシュなどは、学団員に対して、アンサンブルにおいて、無理に、合わせようとすることを要求しなかった。いや、むしろ 合わせるということに対して、極度に、こだわりを持つことを禁じた。クナッパーズブッシュは、なぜリハーサルをしたのか、オペラの前において、なぜ練習をやりすぎたのか、 リハーサルのやりすぎたという風いって、とがめたらしい。まさに、 個々人のザッハリッヒを、最も重要な感覚として考えていた。
車田氏の合唱団批判というものは、そのような考え方に通じるものである
「芸術は厳格に自分の経験に従って、 管理された世界の幻惑機構を突き破るようでなくてはならない、疎外に応えるものは、 異化作用だけである。」<アドルノ「不協和音」、p121>
まさに、ブレヒトも言うように、「異化効果」が、芸術表現においては、重要である。
2022、12、1
表現者たち展 同人 鬼丸康太郎 記