〜芸術における新しい試みにおいて、その最良のものは、常に古い要求にしたがっている、というヴァレリーの命題は、測り知れない射程を持っている。〜テオドール・アドルノ(注1)
アドルノの言葉を、冒頭に引用しましたが、今日から、私のブログを始めていきたい、と思います。
このブログの中心となるテーマは、美学の探求であり、読者が、いわゆる芸術作品といわれるものを制作出来るようになるための方法などを発見するためのヒントとなれば、幸いです。(自分の作品の制作のためではあることは、勿論ですが)
ここ2ヶ月ほど、雑事の間隙を縫ってドイツの哲学者、テオドール・アドルノ(1903〜1969)が1960年に行なった講演「模範像なしに」を読み進めてまいりました。そこから得た、私の考えも含まれていますが、私なりの芸術作品を制作するためのささやかなヒントを、先ずは、お話ししたいと思います。
結論としては、芸術作品とは、以下のα、β、γの3つの要素が結晶化したものxである、と定義されます。
α:作家の置かれた情況により、その内面から自己表出されたパッション。それの最大な強度を帯びたものは昇華的なレベルの心的状況に到る
β:その作家の古典を中心とした他者の作品(オーソドキシー、典型あるいは模範としての古典作品群)に対する作品の捉え方、換言すれば、作品解釈の型
γ:上記、α、βを踏まえた上で、特に、β以外(注2)の自分(作家としての)がイメージする表現を実現するための新たなメディウム(素材)、技法などの新規開発
それらの総合化されたものが、自己表現としての芸術作品である、と定義します。
そこで、特に、先ず注目したいのは、αの要素です。この情報過多な、一見、物質的に豊なように見える成熟した現在に於いては、個人がαの要素を具現化する、あるいは発見する事は、極めて困難な状況にある、と考えます。私は、そこに、現代芸術の困難の中心の一つがある、と考える者です。
故に、よく陥りがちなのは、αの要素をヌキにして、歴史集積である作品群を、単なる諸形式に分解して、それを組み合わせて表現とするところまでで止まってしまい、表現行為が、不完全燃焼に終わってしまうことが、しばしある、と思われます。謂わば、何を、どう表現して良いのか分からない状態です。
また、αの要素が捉えきれない主な原因として、その詳細については、後ほど、展開するとして、キーワードとして、社会哲学の用語である「物象化」という言葉もあげておきたいと思います。
私は、アドルノが述べているように、作家がαの要素を捉えるためには、物象化批判が不可欠である、と考えます。
この物象化の問題は、βの作品理解の場面でも、中心テーマとなる問題だと思います。
今回は、全体の概要めいた事を、簡単に述べさせて頂きました。次回は、それに基づき、論を進めていきたい、と思います。
次回も、よろしくお願いします。
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注1:「模範像なしに」 美学小論集、テードール・アドルノ、竹峰義和訳、みすず書房 2017、p12、16行目より、引用
注2:「芸術作品がもつ普遍的な規則から解放された具体的な法則性に対する洞察のみが、許可されたものと禁止されたものものが記載された目録へと再び硬直化しないでいられるのである。」
「模範像なしに」 美学小論集、テードール・アドルノ、竹峰義和訳、みすず書房 2017、p16、13行目より、引用
鬼丸康太郎 記