「言語にとって、美とは何か」 吉本隆明著 (1)文庫版前書き 及び (2)序論 についての覚書

今、アンリ・マチス展(東京都美術館にて)が、開催されており、マチスについて、考える機会を得る事が出来た。それをきっかけとして、マチスに関する批評を読んだ。

マチスの魅力とは、何かと自分に問うた。自分としては、マチスという画家が、アバンギャルドを実践している、と思われ、そして、特に、特徴的なのは、非常に、批評的である、と思われたからだ。

マチスの芸術的進化は、正に、既存の表現の乗り越え意志に満ちていることである。既存の芸術表現にはない新たな表現を求めること、所謂、「挑戦」である。

印象派、そして、セザンヌを乗り越えること。

そして、その作品は、非常に、批評的、理論的であるにも関わらず、陥りがちな「主知主義」的でもなく、とても感性的であり、かつ、美術の過去の古典群をも包括している、という巨大な抽象性をも兼ね備えている。

Open Window (1905)

吉本隆明の「言語にとって、美とは何か」の前書きで言及された「自己表出」の概念について、それこそカッチリと〝概念的“に理解すると、ロマンティックな表出を想起してしまうが、このマチスの表現に対する思想の批評的捉え返しを踏まえた上での自己表出の意味は、それとは、全く異なる理解が得られる。

そこには、マチスというアーティストの個人的感情も含まれるが、差し当たり全美術史をも包含しているスケールの大きい偉大な抽象性、意表をつく表現、主知主義ではないが、それ以上に、意外に冷静で、戦略的であると同時に、しかし、感情的な表現(色彩、形 など)、と同時に、美術史への挑戦であるにもかかわらず人に、癒やしを与えるその作品。

ここで、吉本が引用したヴァレリイの言葉を改めて掲示しよう。

「ポ ール ・ヴァレリイは 『文学論 』より。

芸術にあって 、理論は大して重要でないという説があるが 、これは讒誣(ざんぶ)も甚だしい 。これは 、理論が 、ただ世界的に共通する価値をもたないということでしかない。理論はいずれもただ一人のための理論なのである 。一人の道具なのである 。彼のために 、彼にあわせて 、彼によって作られた道具なのである 。理論を平気で破壊する批評には個人の欲求と傾向とが分かっていない 。 X氏の道具である理論は 、 X氏には真理であるが 、一般的には真理でないと理論自身が宣言しないのが理論の欠点なのである 。(堀口大学訳 )

続けて、以下、吉本の自身の言葉を引用する。

「文学をひとつの円錐体にたとえてみれば 、じぶんは古典主義者である 、ロマン主義者である 、リアリストである 、超現実主義者である 、社会主義リアリストである 、アヴァンガルドである … …というのは 、円錐の底円周の一点を占めているだけなのに 、文学そのものを占めているように錯覚して 、おなじ円周の他の点と対立しているだけだ 。(中略)こういう文学の理論をすべて個体の理論とよぶことができる 。 」

「文学の理論が 、文学そのものの本質をふくまなければならないとすれば 、現在まで個体の理論として提出されたすべての理論とちがったものとならざるをえない 。ただこれを、ひとが理解するかどうかは 、またべつもんだいだ 。」

序論で吉本は、「文学の理論が 、文学そのものの本質をふくまなければならない」という非常に、包括的かつ抽象性の高い目標を提示している。

Joy of Life (1905-06)

それでは、先に論じたマチスにとって、芸術の本質とは、何か。

それは、ピカソのキュビズムにあるような〝主知主義”でもない。また、カンディンスキーのように、抽象の理論でもない。

マチスは、知的ではあるが、〝戦略的ではない”事を戦略的に実践しており、直感的、即興的ではあるが、全美術史を包含したスケールの大きな抽象性もあり、また、個体的でもある。

全く、捉える事の難しい巨大なアバンギャルドである。

Large red interior (1948 )

2023年5月11日 記

表現者たち展 同人 鬼丸康太郎

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